いろいろ感動した体験談

このページはタイトルに感動の体験とつけました。客観的に不思議な霊的体験ということではありません。ですけどもわたしの中ではスピリチュアルな体験です。時期的には神社参拝をするようになってからのできごとです。いずれもわたしの人生の中でもとても印象深いものですので思い出話として書いています。イメージ画像として印象深いスピリチュアルな画像を画像サイトからダウンロードして掲載しています。必ずしも記事内容との関係はありません。

目次

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光の体験


Gerd AltmannによるPixabayからの画像

3~4年前のできごとですが、ある神社でお祈りをしていた際、突然目の前にとてつもなくまぶしい光が広がり「うわぁなんてまぶしい光なのだろうか」と、思わず目を伏せてしまいました。(^∀^;) その時、目を閉じてお祈りしていたのに正視することができませんでした。とても高貴な光でした。その光が見えた瞬間、強烈な感動に包まれ、涙が洪水のようにあふれ、ぼたぼたーと地面に落ちました。意識上の感情の動きが起きるひまがなかったので魂の感知です。今までの人生を振り返っても一瞬で最も大量の涙が出た体験です。

その後、その日その神社に再びお詣りしても同じ光には遭遇しませんでした。1回こっきりの体験なのだろうと思います。あの光はなんだったのでしょうか。またいつかあのような光を見たいと思っています。あとから考えると高次元の存在の輝きなのかもしれないなと思いました。

その体験をした日はその余韻で、ずっと感動したままでした。神社参拝で最も感動したできごとです。

あの光に照らされたら、不浄は祓われ、清らかさを得ることができるのだと思いました。もしかしたら光はいつも届いていてそれを感じ取れるのかどうかということだと思います。誰もが光を受け取っていて受け取り続ければ人は自ら成長することができるという、高次元の神のおられる神社とはそういうところではないかと思いました。

このときくらいから、宇宙の成り立ち、秩序、真理、法則、この世界の存在理由、人の存在理由、自分とは何かといった点に興味をもつようになりました。過去には10歳くらいの頃からしばらくそういうことに興味を持っていたのですが、高校くらいからは社会生活の中で忘れておりました。久しぶりにスピリチュアルなことに興味を持つようになりました。

楽園の体験


Gerd AltmannによるPixabayからの画像

2~3年前くらいになりますが、奥日光の女峰山を目指して途中に赤薙山という山に登ったときに楽園体験をしました。別のページの記事にも登山記は書いています。
その時、赤薙山は2度目の登山(登拝)だったと思います。赤薙山にはきわめていやしの力が強い山岳神さんがおられ、その時もとても歓迎いただいていました。

簡単に祝詞を上げたあと、少しお腹がすいたので赤薙山頂にすわりおにぎりを食べてました。そうしていたら小さな小鳥の群れがやってきて周囲をぐるりと取り囲まれ、小鳥たちのさえずりがたまらなく気持ちよかったです。山中にただ1人わたしが存在し、山には山岳神さんと小鳥たちを初めとした自然のいやしがあり、「ああ、これは楽園だ」「楽園というのはこういうことなのだ」と心に浮かび、ありえないほど幸せな感情が湧き起こりました。
楽園と言うと、ただ穏やかで夢か幻想のようなイメージもありますが、その時は、次の目的地である女峰山に向けてがんばって登ろうという決心が湧いてきて、次の行動を起こさせるような意欲につながる楽園でした。

五感、六感を高め、自然とふれ合い、神とふれあうことで、わたしたちの住むこの物理世界の営みにも楽園が存在しうるのだなと思えたできごとでした。また霊山に入ることの貴重さを改めて思い知った体験でした。

祝福の体験


Gerd AltmannによるPixabayからの画像

祝福と愛のエネルギーに接した体験を書いて見たいと思います。2~3年前のことですが、電車ですごく強い幸福感を覚えたことがありました。人に席をゆずったあとに起きた体験です。

電車に乗っていて立っていたら、ある駅で人が降りて近くの席が空いたことがあります。なかなかすわり心地がよさそうな席だったので一瞬すわろうかなーとも思ったのですが、その席を必要とする人が次の駅で乗ってこられる予感がしたのですわらずにいました。

するとやはり、次の駅で品のよさそうなやや高齢のスーツの男性が乗ってこられ、その席にすわられました。その方はお疲れだったのか、すわれたことで心底ほっとした表情を見せられました。その表情を見ていて、「よかったー」ととてもうれしくなりました。うれしい幸せな気持ちで車中を過ごしていたのですが、しばらくして突如、強烈な高波動の祝福と愛のエネルギーがどこかから届き、電車の中なのに訳もわからず涙がぽろぽろと出てきました。我を忘れるような感動体験でとてつもない幸福感でした。恐らく人生で一番感動した体験です。
祝福と愛のエネルギーとでまとめていますが、祝福、愛、歓び、慈しみ、癒し、いたわり、幸せなど様々な要素がパッケージングされたようなエネルギーであり、代表的にまとめるとしたら祝福と愛のエネルギーでした。

そのときの体験を通じて気づいたことがあり、大きく次の四つでした。

一つ目は、「この世界には、何とすばらしい愛のエネルギーが、何と強い愛のエネルギーが存在するのだろうか」と、驚嘆したことです。余りの感動にその後、電車や駅の中になのに30分くらい感激の涙が止まりませんでしたし、その日はずっと感動したままでした。今でも思い出すと涙ぐみます。

二つ目は、世の中すべてがつながっているのだなということです。席をゆずった方とわたしだけでなく、人という存在、その他あらゆるもの森羅万象は見えない世界で全てつながっているんだなということが実感として理解できました。「すべて見えないところでみんなつながってるんだ。ああ、やっぱりそうだったのか。」という感じです。

三つ目は、わたし自身はもちろんその他全ての人の発言、行動、さらには感情の動きや思考でさえ、すべてが宇宙の中で共有されているいうことでした。とても精巧に造られた世界にわたしたちは存在しているのだと実感しました。

四つ目は、わたしが何かを享受しても他の誰かがその利益を享受しても同じことだということです。例えば電車で誰かが座りわたしが立つ、わたしが座り誰かが立つ、どちらでも社会としては同じであり得でも損でもないということです。わたしが誰かに親切にするのは、自分に親切にするのと同じこと、わたしが誰かにつらく当たるのは、自分につらく当たるのと同じことだということでした。

友愛の体験


Gerd AltmannによるPixabayからの画像

この体験は、ある日新幹線に乗っていたとき、途中の駅で赤ちゃんを連れた若ご夫婦が乗り込んでこられ、そのご家族をを見ていたときに体験し友愛を想起した体験です。

詳細は、以前の記事に書いていますが、そのときの記事を以下に転載します。

”新幹線で興味深い体験をしたので書いておきたいと思います。上りの新幹線の途中で赤ちゃんを抱っこした男性が乗り込んできました。わたしは子どもが好きなので赤ちゃんを見て「うわぁ~かわいいなー」と思いました。次にしばらくして(おかあさんらしき)女性がその隣の席にすわりました。私の少し前方のななめ前の席でした。幸せそうな若夫婦だな~と思い、暖かい気持ちになりました。

その夫婦の姿を見ていると、突然わけもなく涙が溢れ出してきました。夫婦+赤ちゃんにはとてもよいものを感じました。そのご家族をとてもかわいく思い、まるで自分の子どもに対する愛着のように心の中でよしよしと頭をなぜたりしていました。なぜ赤の他人の大人にそんなことを感じてしまったのか不思議でした。
観察しているうち、特に奥さんを見るととてもよい波動を感じどんどん涙がでてきました。まったく知らない方たちです。自分でもなぜ涙がでるのか理由は定かではないかったのですが、とにかく神聖な波動を感じました。今までそんな波動を人間から感じたことは余りないので驚きました。なぜ、こんなに涙が出て、自分は感動するのか理由を知りたいと思い、意識をこらしてみたり、心の中でご家族に話しかけたりしました。
その後、ぱっと思いついたことは「周囲の人を自分の子どものように愛せよ」ということでした。なるほどな~的な自分のここ数日の状況からとても腑に落ちる言葉でした。われながらよい言葉を閃いたな~と思いました。この言葉を思いついてから、夫婦を見ても特に何も感じなくなり神聖な波動は去りました。”

特に印象に残るのが「周囲の人を自分の子どものように愛せよ」という言葉です。この体験前後から、周囲の人をより可愛く思えるようになりました。みんな成長するために頑張っている同じ人間の仲間であり、それぞれに勉強の段階がありますから、それには年齢も地位も財産も容姿も能力も頭のよさも関係ありません。
キリストの言葉で、汝の隣人を愛せよという言葉があるのではないかと思います。その言葉と同じようなことかなーと理解しています。

幸せの体験


Gerd AltmannによるPixabayからの画像

この体験は平穏な何の変哲もない生活の中にしみじみとした幸せを感じた体験です。

以前ある山を登っていて、登山は天候の悪化で途中断念し下山した、下山後の田舎の食堂で経験したできごとです。以前記事にも書いているのでそこから引用し、一部追加補足したいと思います。

”下山後、食事でもしようかと思い、昼食をとっていなかったので西沢渓谷入口近くのお店兼食堂に入りました。

食堂ではいくつかある定食の一つを頼んだところ、蒟蒻のおかずがついておりました。刺身蒟蒻がとろとろで柔らかくて普段食べられないような食感でおいしかったです。定食は温かいうどんと熱々のおにぎりが体に心地よかったです。温かいお茶が自由に飲めて下山後の体に染み入るようなおいしさでした。

食堂はテレビがついていてバラエティ系の番組でした。店主っぽいおじさんやお店のおばさんもテレビを見ていて、談笑されていました。すごくなごやかな風景でした。楽しそうにされている人たちを見ていると体によい波動が走りました。その場に喜びの波動もあったと思います。「幸せそうな人を見ているというのはすごく幸せなことだな」という感情が湧きました。逆に自分が普段から幸せを感じていると他の人にもそういう影響を与えるということでもあります。

日本の、善良そうな人たちの、何の変哲もない日々の営み、平穏で楽しい暮らしこそが大事なのだと思えました。人々の幸せの想念の蓄積が日本を支えるのだと思います。”

さらりと体験を書いていますが、実は食堂で幸せそうな人の姿を見ていると、「幸せそうな人を見ているわたしは、今、確かに幸せだ。ああ、何と幸せなのだろう。」という感情が芽生えました。そしてとても感動し、このときも幸せの涙がでてきました。食堂を出たあともしばらく涙が止まりませんでした。祝福の体験のときの幸福感とは違い、このときの幸福感は静の幸福感というべきものでした。

静寂の体験


Gerd AltmannによるPixabayからの画像

静寂の体験は時々経験したことがありますが、代表的なところであるお寺の庭園で感じた体験について書いています。残暑が厳しい時期にそのお寺の庭園回廊を見学していたら誰も来ない時間帯があり、庭園の端に佇んでしばらくぼぉーっとしていたら、心の静寂のあと、幸福感がじーんとやってきた体験です。

以前別のページの記事で書いたことがあるのでそこから引用してみます。

”庭園の回廊の散歩では、何もかもがゆっくりとした時の流れでとても貴重な体験でした。静かに安らかに過ごせる一こまは人生の幸せの一つだと実感しました。人が少ないことが幸いしました。

庭園の周囲の回廊は雰囲気を味わいたかったのでゆっくりと歩きました。大客殿を過ぎると2種類のせみの音が聞こえていました。じいーーーーというせみと、つくつくほーしがいました。
回廊の端に穏やかな庭園の一角があり、足を止めました。しばらくの間、何も考えずそこにたたずみました。明鏡止水の心境だったと思います。せみの音がおさまり、時折、遠くで物音がするだけで、とても静かな庭園です。少し離れた池でばしゃっとした水の音とともに水鳥のはばたきの音がしました。大空を飛ぶ飛行機の音がかすかに聞こえたりもしました。それらの音もこの静かな環境の一員でした。

暫くすると、穏やかなひと時を過ごせることに堪らなく幸せを感じ、静かな感動を覚えました。”

静かな感動ではありますが、幸福感はとても強かったです。なぜこのとき、幸福感が生まれたのか思い返すと、何の心配も、心のわだかまりも心の中に何もなかったことを実感できたから、心の平安を実感することができたからではないかと思います。


 

以上でひとまず体験談は終わりです。神社やお寺参拝をするようになってから幸福や感動をよく体験するようになったなと思います。日々何の変哲もないできごとや体験にかけがえのない幸せを感じることは多いです。

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